明るい声を世の中に。 中村ラジオへようこそ。 誰かの代わりに。 鷲田清彦。 自分にしかないものは何だろう。 自分には他の人にないどんな能力や才能があるだろう。 こんなふうに考えたことはありませんか? 自分とは何かという問いは、哲学者や思想家などによって昔から繰り返されてきました。 しかし、今は、この自分とは何かを、哲学者や思想家だけでなく、十代の若者から中高年まで、世代を超えて誰もが問わずにいられない時代であると思います。 その理由として、今の社会がこれまでの時代に比べ、個人により大きな自由が保障される社会であるからだということができるでしょう。 自分の意思で自分の人生を選び取っていくことを理想とする社会。 何にでもなれる可能性のある社会。 昔の封建制の下でのように、個人の自由が厳しく制限されていた社会よりも、ずっと居心地の良い社会だと言えそうです。 しかし、ここには自由があるからこそのしんどさがついて回ります。 何にでもなれる社会。 これを裏返して言えば、その人の存在価値は、その人が人生において何を成し遂げたか、どんな価値を生み出したかで測られるようになるということでもあります。 何をしてきたか、何ができるかで人の価値を測る社会。 そこでは人は絶えずあなたには何ができますか? あなたにしかできないことは何ですか? と他から問われ、同時に私には他の人にはないどんな能力や才能があるのだろうと自分自身にも問わなければならないことになります。 あなたの代わりはいくらでもいる。 ここにいるのは別にあなたでなくていいと言われることがないように、自分が代わりの利かない存在であることを自分で証明しなければならないのです。 こうした状況は、先ほどの自分とは何かという問いを、こんな私でもここにいていいのだろうかという、なんとも切ない問いへと変えてしまうことがあります。 そのような問いに直面した時、私たちはその苦しい思いから、今のこの私をこのまま認めてほしいという、いわば無条件の肯定を求めるようになります。 何かができなくても、このままの自分を肯定してほしいと痛いほど願うのです。 自分の存在が誰からも必要とされていないこと、お前はいてもいなくても同じだと言われることほど惨めなこと、怖いことはありません。 だから、できるできないの条件を一切つけないで、自分の存在を認めてくれる人、あなたはあなたのままでいいと言ってくれる人を求めるのは自然の成り行きです。 でも、これはちょっと危ういことでもあります。 あなたはあなたのままでいいと言ってくれる他者が、いつも横にいてくれないと不安になるというように、自分の存在の意味や理由を常に他人に与えてほしいと願う、そんな受け身の存在になってしまうからです。 いつも他者に関心を持っていてほしい。 その人が見ていてくれないと何もできない。 そんな依存症に陥ってしまうことがあるからです。 このように受け身な存在でいては、人生で見舞われる様々な苦労や困難、社会で直面する様々な問題は、何も解決することができないでしょう。 私たちにはそれらを引き受ける強さというものが必要なのです。 ここでいう強さのことは、今の社会ではよく自立と呼ばれます。 誤解してはならないのは、自立は独立のことではないということです。 独立は英語でインディペンデンスと言います。 依存を意味するディペンデンスに否定を意味するインがついた語で、誰かに依存している状態ではないということです。 でも、私たちは誰も一人では生きられません。 食材を準備してくれる人、看病をしてくれる人、手紙を届けてくれる人、電車を運転したり修理したりしてくれる人。 社会の中では、数え切れない人たちが、互いの暮らしと行動を、支え合って生きています。 お金があれば、一人でも生きていけるじゃないかという人もいるかもしれませんが、お金があっても、それが使えるシステムがなければ、さらに、そのシステムを支えてくれる人がいなければ、何の役にも立ちません。 自立は、依存を否定するインディペンデンス、独立ではなく、むしろ、依存に相互に、という意味のインターをつけた、インターディペンデンス、支え合い、として捉える必要があります。 いざ、病気や事故や災害などによって、独力では生きていけなくなった時に、他人との支え合いのネットワークを、いつでも使える用意ができているということ、それが、自立の本当の意味なのです。 困難を一人で抱え込まないでいられること、と、言い換えることもできるでしょう。 言うまでもありませんが、支え合いのネットワークであるからには、自分もまた、時と事情に応じてというか、気持ちの上ではいつも、支える側に回る用意がないといけません。 つまり、誰かの代わりに、という意識です。 これがおそらくは、責任を負う、ということの、本来の意味でしょう。 責任は、英語で、Responsibilityといいます。 応えるという意味のrespondと、能力という意味のabilityからなる語で、助けて、という他人の訴えや呼びかけに、きちんと応える用意がある、という意味です。 日本語で責任というと、課せられるもの、押し付けられるもの、という、受け身のイメージがつきまといますが、責任というのは、最後まで、一人で負わねばならないものではありませんし、何か失敗した時にばかり、問われるものでもありません。 責任とはむしろ、訴えや呼びかけに応じ合うという、共同の感覚であるはずのものなのです。 君ができなかったら、誰かが代わりにやってくれるよ、と言ってもらえるという安心感が、そこにあるような、社会の基本となるべき感覚です。 人には、そして人の集まりには、いろいろな苦労や困難があります。 それらを避けたい、免除されたいという思いが働くのも、無理はありません。 けれども、免除されるということは、誰か他の人に、あるいは社会のある仕組みに、それとの格闘を、お任せするということであって、そのことが、人を受け身で無力な存在にしてしまいます。 これに対して、私は、人生には、越えてはならない、克服してはならない苦労がある、と書いた、一人の神学者の言葉を思い出します。 苦労を苦労と思わなくなる、のではありません。 苦労を苦労として、そのまま引き受けることの中にこそ、人として生きることの意味が埋もれていると考えるのです。 苦労はしばしば、一人で背負いきれるほど、小さなものでもありません。 人と支え合うこと、人と応じ合うことが、どうしても必要になります。 冒頭に挙げた、自分とは何か、という、自分が存在することの意味への取りについても、自分の中ばかりを見ていては、その答えを探し出すことはできません。 その答えは、他の人たちとの関わりの中でこそ、具体的に浮かび上がってくるものだからです。 他の人たちと関わり合い、弱さを補い合うからこそ、人は倒れずにいられます。 そして、自分が存在することの意味を、感じながら生きることができます。 誰かの代わりに、という思いが、余力のある時に、というのではなく、常に、求められるものであることの理由は、ここにあります。 最後に、私が十代の頃から愛読してきた、パスカルという思想家の著書、パンセの中の言葉を紹介しましょう。 人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている。 今の社会を生きる私たちにとって、繰り返し、味わうべき言葉だと、思います。