中村ラジオへようこそ。 出会う人は先生。 僕がよく利用する駐車場にちょっと苦手な係員がいました。 口うるさい初老の男性。 利用するたびに僕たちは同じやりとりを繰り返したものです。 「車のミラーを閉めなさいよ。 ここの駐車場は閉めなきゃ入れないんだから。」 「すみません。 僕の車はミラーのところが壊れていて閉まらないんです。」 「そんなのそっちの都合だろ。 ラインからはみ出さないように閉めてください。」 「いや、でもこの前もその前も閉めないままで入れましたよ。」 こんな押し問答を繰り返すのはいい加減にうんざりしているのですが、そこが一番便利な場所なのでやむを得ません。 毎回同じやりとりをするので、いつの間にか係員の顔まで覚えてしまいました。 先日、ついにひと悶着が起こりました。 いつもはしぶしぶ通してくれる係員が、手で無理やりミラーをグイッと閉めてしまったのです。 別に壊れはしませんでしたが、やはりそんなことをされるのは気分がいいものではありません。 実のところ、僕は腹を立てました。 車を止められたので我慢して買い物に出ましたが、僕が怒っていたことは相手にも伝わっていたでしょう。 いくらか声を荒げたかもしれません。 嫌だなと思いました。 駐車場に戻って料金を支払うとき、またあの係員と顔を合わせるのです。 どう考えても気まずいけれど、車を置いたまま帰るわけにもいきません。 その時僕は思い出したのです。 昨日より今日自分がちょっと変わって新しくなりたいのなら、周りから学ばなければならない。 そして一番の先生は人なのだということを。 毎日の中で接するものは無限にあります。 経験や出来事、本やアートや音楽、様々なものから刺激を受け、人は変わっていきます。 僕とてそれは同じですが、これまで生きてきた中で、僕に最も大きな影響を与えてくれたのは人でした。 僕が影響を受けた中には、尊敬できる人も、すごい人も、とっても素敵な大人もいました。 しかし、特別優れた人だけが先生でなかったことも事実です。 世の中からはみ出したボロボロの暮らしをしていた人からも、全てにいい加減な組織からも、僕は何かを学べました。 知り合いでもなんでもない通りすがりの人の笑顔すら、人生を形作ってくれた小さいけれどかけがえのないパーツなのです。 その意味では、駐車場の係員もまた先生になり得るということです。 彼は僕に何を教えてくれるのだろう。 そんなことを考えながら駐車場に戻った僕は係員に挨拶をし、「さっきはすみませんでした」と謝りました。 すると彼は僕が折れたことを受け入れてくれたのでしょう。 ミラーのことなど忘れたように「いつもありがとうございます」とにっこり送り出してくれたのです。 その瞬間、苦手な係員がいるという事実は、苦手な係員がいたという過去の話に変わりました。 それでも、全ての出会いが素敵なものというのは美しい夢に過ぎません。 気まずいこともあれば、腹が立つこともあるのが現実の暮らしでしょう。 だからこそ、この出会いから自分は何を学べるだろうと考えることに意味があるのではないでしょうか。 今日出会う人すべてが自分に何かを教えてくれる先生だと思えば、相手のファッションや似てくれ性格の善し悪しすら気にならなくなります。 優しい人から学べることもあれば、意地悪な人から学べることもあるのですから、この考え方を試し続けていると、自然にありがとうという感謝の気持ちが生まれます。 人に生かされて生きているという事実を忘れずにいられます。 皆さんこんばんは。 今夜も中村ラジオへようこそ。 私は当ラジオ局のディスクジョッキー中村です。 さて、日本語学習者にとって避けられぬ関門といえば日本語能力試験ですが、七月に行われた試験の結果が先日発表されました。 我が中南財経政法大学日本語学科の学生たちもN1に挑戦しましたが、結構いい報告をしてくれる子が多く、先生としてほっとしているところです。 皆さんはいかがでしたか? うちの学生の結果を見ても。 N1に合格するかどうかは、やはり聴解がその鍵を握っています。 十二月の試験の申し込みも始まりました。 中村ラジオが皆さんの聴解力向上の一助となれば幸いです。 今夜の朗読のテーマは、出会う人は先生でしたね。 私は職業柄、毎日誰かに先生と呼ばれます。 世の中には幾多の仕事がありますが、教師はお金を払う側がもらう側にありがとうございますと敬意を払う数少ない仕事です。 だからこそ、私たち教師はもっと学生の期待に応え、成果を出していかなければなりません。 特に大学は会社のような厳しい上下関係がなく、ましてや外教の私は上長の命令を受けることもほとんどありません。 そう言うと、今企業で働いている人はいいなと思うかもしれませんね。 私は日本で六年間サラリーマンとして塾の運営をしていましたから、その気持ちはよく分かります。 確かにあの頃と比べると、外教の生活はかなり自由ですね。 授業数も多くありませんし、楽をしようと思えばいくらでもできます。 実際、残念ですが、外教の中には自分の職責を忘れているのではないかと思ってしまう人が結構いるんです。 しかし、私にとって二十年続けている教師は天職。 これはこの仕事が大好きだということだけではなく、天から授かった使命だと思って、これからも自分を律し、自分を鍛え、先生と呼ばれるのにふさわしい教師となるよう精進していきたいと思っています。 教師になった第一日目から私たちは先生と呼ばれますが、最初から本当の先生になれるわけではありません。 最初の三年くらいは、出会う学生たちこそが私の先生でした。 中二になっても分数の計算ができない子、libraryの単語を回書いてもまだ間違える子。 短気な私はそのできなさに驚くとともに、焦りからその子を怒鳴りつけました。 何年か経って、ふと当時の自分の未熟さに気づきました。 怒鳴られるべき人間は私でした。 彼らは半人前の教師の私を泣きながら一人前にしてくれました。 もう会うことはない人たちですが、私にとって彼らはまさに恩師なのです。 これと同じことは、教室だけではなく、日々の生活のすべての場面で起こりえます。 我々は直接間接を問わず、出会う人から様々な気づきをもらいます。 それは分かりやすいものであったり、時には反面教師という形で現れます。 その気づきに本当に気づけるかどうかが、人間として成長できるかどうかなんだと思います。 年を取ったり経験が増えると、人は時として初心を忘れ、傲慢になります。 出会う人は先生。 私はこれからも謙虚な気持ちを忘れずに生きていこうと思います。 明日はどんな気づきがあるでしょうか? では、皆さん、次回もここでお会いしましょう。 おやすみなさい。